2010年02月11日

初めて空を飛んだ安里

 昔、首里の武士に安里という者がいました。

 この人は、中国に渡り、花火の製造と打ち上げ法を習って来て、沖縄で初めて暗夜の空
高く、花火を打ち上げて、人々をびっくりさせた人です。

 この時から人呼んで、ヒファナジ安里と名づけられました。

 安里は鳥の飛ぶのを見て、自分飛んでみたくなり、それから毎日工夫を重ねました。

 いくつもの設計図を書き、翼を作り上げました。

 ついに、これなら飛べるという自信作が出来たので、ある日、中城の南側の松林の高台
に運んで試みることにしました。

 風の具合も穏やかな日で、安全を確かめ、体に装具して高い所に立ち、風に向かって、
地を蹴って飛び上がったのであります。

 しばらく滑空して、あれよあれよと驚く人々の頭上をかすめて、熱田の部落へ降りたので
あります。

 このことを公儀は、民衆を騒がせたというので、安里は罰せられたとのことです。

 その後、人々は、この人のことを飛び安里と名づけました。

 この世界的な発明をした偉大な人物も時を得ずして、悲憤の涙を飲む運命となりました。

 尚成王という、ただ一ヵ年間在位した王の時代の話であるそうで、1803年のことです。

 かの有名なアメリカのライト兄弟が空を飛んだのは1903年のことですから、先立つこと
100年も前で、これを歴史に記録していたら、なお、国がこの人を援助していたら、一段と
進歩していたであろうと残念でなりません。

 歴史の表に出してもらえなかった安里の偉業を今からでも語り伝えようではありませんか。


                                      宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より

飛び安里 初飛翔記念碑(南風原町)
初めて空を飛んだ安里初めて空を飛んだ安里


 飛び安里(とびあさと)とは、18世紀の琉球王国で飛行したと伝えられる人物です。

 代々花火師であった安里家の三代目・安里周當(しゅうとう)が「飛び安里」であるという説と
四代目の安里周祥(しゅうしょう)が「飛び安里」であるという二つの説があります。

 安里周當(周当)の飛行機械は、凧のような機体で、妻が命綱を持ち南風原津嘉山で飛んだ
と言われています。

 安里周祥は1768年に首里の鳥小堀村(現・鳥堀町)で、代々花火師であった安里周當の
四男として生まれました。

 のち越来村胡屋に居住し、花火師としては1801年に冊封使を歓待するため仕掛け花火を
披露し、時の国王、尚温王から恩賞を受けています。

 この時の仕掛け花火は「松竹梅」の文字が浮き出るものだったと言われています。

 安里周祥は泡瀬海岸に面した断崖から飛び立った説と、または那覇市南東数キロの津嘉山
で飛行したとの二説があります。

 飛行距離などの詳細は不明です。

 正確な年代は不明とする資料が多く、斎藤茂太『飛行機とともに』では彼の飛行を1787年と
しています。

 そして周祥は「空を飛んで、王の恩賞にあずかった」とされています。

 安里周祥の書いた設計図は子孫に伝えられたが、経年劣化および火事による焼失で、戦前の
時点では既に全てが失われています。

 それでも、信じたいです。。。



同じカテゴリー(嗣周・歌まくら)の記事
大晦日
大晦日(2009-12-30 11:58)

雲岩長老
雲岩長老(2009-12-24 18:39)

橋の話
橋の話(2009-12-08 00:51)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。