2010年01月19日

喜屋武元武・・・進貢船の反乱

 この話は琉球の歴史に表れていない話です。
 
 喜屋武元武という人は忠義な臣として、御拝領墓を頂戴した程の人物です。

 何王の時代か定かでありませんが、進貢船が仕立てられました。

 喜屋武元武は正使副使の警護役として一行に加わりました。

 行きは事なく渡りまして、中国の皇帝を拝し、貢物の献上もめでたく済まし、帰国する時が
やって来ました。

 皇帝より琉球国王への数々の御下賜品があり、それを無事に持ち帰るだけでも大任でした。

 船足も軽く、はや航程の半ばになった頃、船中の人心が一変して、皇帝より御下賜になった
品々を、海賊に会ったことにして、皆で山分けしようということになりました。

 高官の正使副使も一同の意見に従いました。

 そこで、喜屋武元武が呼び出されて、お前も同意するように、と説得されましたが、元武は
これに反対しました。

 そこで、一同の者は「元武よ、お前を殺すことになる。」と脅されました。

 しかし、元武は、このことに加わりませんでした。

 そこで、今日まで一緒に行動した友達だから夜まで生かしておこう。

 それまでに考え直して味方になって呉れ、といわれて船底に閉じ込められてしまいました。

 そこで、元武は、この有様を詳しく書いて、徳利の壷に入れて、口をきつく封をして、その上
から蝋燭で密封して海中に投げ入れました。


 そして、夜になり殺されました。


 この船が那覇港に入らない前に、沖で漁師によって、元武が投げ入れた小壷が拾われ
公儀へ届けられていました。

 一同の者が通堂の迎賓館でくつろいでいると、やがて、上使がお見えになり、任務報告を
受けられた後、長旅の苦労をねぎられました。

 その時、上使は、「喜屋武元武の姿が見えないが、どうしたのか?」とお尋ねになりました。

 そこで、「海賊に襲われた時、討ち死にしました。」とお答えすると、上使は言葉鋭く・・・
「これは何か!!」と一通の文書を見せ、厳しく詰問なさいました。

 一同はびっくりして、上使が広げた文書を見ますと、自分たちの悪事が細大漏らさずに
記されています。

 この上は隠すことも出来ないと恐れ入って罪に服しました。

 公儀では喜屋武元武の忠誠心に深く感じて、その霊を慰めるために、墓を賜りました。

 この墓の正面の上には口がえしの獅子が一体飾られています。

 これは罪のためとはいえ、沢山の人々が、元武のために罪科に服した恨みがかかること
への口がえしとして、獅子像が飾られたものです。

 その罪人たちには高官も加わってのことゆえ、その家格に対するおもんばかりもあって
歴史の面には出なかったものと考えられます。



                                  宮城嗣周著「嗣周・歌まくら」より


 喜屋武元武の門中と思われる資料

 氏名   : 嶈(ショウ)
 名乗頭字: 元(ゲン)
 系統    : 首里系士族
 元祖名  : 糸数親雲上元儀(イトカズペーチンゲンギ)
 唐名    : 嶈起祥(ショウキショウ)
 家名    : 外間家
 支流数  : 5 (外間、伊敷、糸数、喜屋武、志喜屋)



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