2009年11月14日
奥間鍛冶屋(カギヤデ風)
奥間鍛冶屋(カギヤデ風)※写真は現在の奥間家(奥間鍛冶屋)
尚円王が青年の頃、故郷の伊是名村で農業をしていました。
その頃の御名は西の松金と名乗らていました。
外の青年たちの田圃は水涸れして稲が枯死しても、西の松金の田圃は水が満々で稲は青々として
成長しているので外の人たちは「これはてっきり水を盗んでいるに違いない。」と疑い、西の松金を殺害
しようと計画しました。
これを告げる者がいて、西の松金は夜通し馬をとばして、通水山の樹木をくぐって逃れました。
さて、西の松金は故郷を逃げ出しましたが、それでも伊是名島の島内にいては危ないと思い、舟を
こぎだして、国頭の宜名真に逃れました。
そこで、しばらく農業をしていましたが、島にいた時と同じことが起こり、そこにもおれなくなって、村の
後方に聳える与那覇岳の山中に逃げ隠れていました。
そして、食物がなく困難しているところを隣り村の奥間に住む鍛冶屋が、ひそかに食物を運んで助け
てくれました。
後日、西の松金は尚円と名乗り、王位に即かれることになりました。
そして、この奥間鍛冶屋に助けられた旧恩に報いるために使者をやって首里に迎えたのでした。
奥間鍛冶屋は思いもよらぬ幸せに感激して詠んだ歌が・・・
ガ フ ヌ ツィ チャ スィイミ チョ ン ン ヌ ヂャ ディ ヌ ツィ ヰフィ トゥツィチャ
「あだ果報のつきやす夢やちやうも見だぬかぎやで風のつくりへたとつきやさ」
だという言い伝えがあります。
なお首里より呼び出しを受けた当人は「私はここで一生鍛冶屋で暮らします。」
首里上りをお断りしたら、「それでは長男を」とお声がありました、長男も父の跡を
継ぎ鍛冶屋になります、とお断りしたとのこと。
しかし、尚円王が是非にと望んで、結局、次男が首里に上ることになり、按司の位
を授けられ、国頭御殿を称することになったという話です。
親と長男はそのまま奥間に住み着いて一生を奥間鍛冶屋で終わったという俗話が
あります。
宮城嗣周・著「嗣周・歌まくら」より
Posted by 華氏 at 14:14│Comments(0)
│嗣周・歌まくら