2009年11月19日
恩納節



恩納ナベは今の恩納村字恩納(昔は今の村は間切といい、字は村と呼んだ)の屋号マッコー屋の
娘と言われています。
百姓の身分であったので系図はなく、その外に何の記録もないので、その生涯は調べようがあり
ません。
(中略)
恩納ナベが詠んだ歌は十七首と言われています。
このうち、十三、十四は初八の語がおきかえられて外は同じ歌です。
恩納節について舞踊家島袋光裕氏が私に話されることに、御冠船踊を創設された玉城親方朝薫は
大音楽家で あったというが、伊野波節の入羽に、恩納ナベのような田舎娘の歌を借りねばんらぬ事情
はなかった筈だが、どう してあれだけ格調高い伊野波節の跡に受けて恩納節にしたのだろうか・・・。
私はこの問題に対して二つの面を示しておきました。
その一、古典の舞踊は玉城親方の捜索になるものであるが、歴代の踊奉行によって管理されるうちに
時として改作または節組の編成替え、または一部に手を加えられた形跡がある。
(中略)
その二、歌の格調式軽重は読人には依らざること。
(中略)
節の長短にも依らざること。
(中略)
以上のことから類推すると、伊野波節の踊りは、その一の例から何代かの踊奉行によって、編成替え
があったものと思われます。
宮城嗣周・著「嗣周・歌まくら」より
Posted by 華氏 at 19:19│Comments(0)
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