2010年04月11日
大兼久節


名護は琉球本島の北部の都です。
町外れの海岸に続いている砂地に兼久の地名があります。
今では町名になっているほど繁栄している所ですが、昔は白砂青松の風景のよい所で馬場が
あり、青年たちの乗馬の練習も盛んでした。
一方、名護湾の眺めも、これまた絶景のもので静海波に白帆の影を映して浮かぶ舟の景色も
これまた最高です。
陸に、海に、この素晴らしい雄大な景観を歌ったのが、この大兼久節です。
この節は昔はジャンナー節のチラシです。
その時の歌詞は、昔は・・・
「馬よひきかえちしばし行ぎ見ぼしや 音に聞く名護の許田の手水」でした。
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
2010年03月30日
執心鐘入(渡嘉敷守良型)
「執心鐘入」(一名中城若松)渡嘉敷守良型の特徴
平成10年3月22日に行われました「与那原町芸能協会創立10周年記念」にて演じられました
「執心鐘入」渡嘉敷守良型は従来演じられているのと所作に相違があり、歌と立方の所作との
連携、立方の舞台での動きなど他の型より面白味があり、物語の筋が理解されやすいと思います。
例えば、若松が一夜の宿を女の許しわ得てから、女が幕内に消えた後に横になって休み、
やがて若松が寝入った後で干瀬節の「里と思めばのよで、いやでいふめお宿」と歌に合わせて
女が登場して、寝ている若松の寝顔をのぞき込む、この所作は女の一途さを示し、見ている人は
思わず固唾を飲む場面であります。
組踊「執心鐘入」演技指導/瀬底正憲
歌・三線/宮城竹茂 瀬底正芳 與那嶺豊 箏/宮里孝子 笛/照屋 正 太鼓/国場秀治
座主/宮城嗣幸 若松/赤嶺千春 宿の女/島袋エリカ
小僧1/久場 英 小僧2/玉城 優 小僧3/山内小夜
そして躊躇しながら一代決心して寝ている若松を呼び起こし、そして相対して座る場面となります。
一方、盛重型、松含型では若松の一夜の宿の頼みに女の返事はなく、干瀬節の歌で
女の応諾を示唆して登場し、突っ立っている若松の顔を左右からのぞき込む、その所作は
昔の若い女の行動としては違和感を覚えます。
そして、そのまま向き合って座り、女のいる面前で若松が横になって休む、その所作は
若いの男女の初対面の場面としては不自然に感じます。
やがて若松は女の誘いに会います。
しかし女の執拗な誘惑をしりぞけ、若松が逃げ去る場面となりますが、その逃げ去る場面は
守良型は先ず、若松が舞台下手幕内に逃げ込み、それを女が追いかけて同じく、下手幕内に
走り込む、そして若松が再び舞台に走り出て上手の末吉寺の座主に助けを、求めるという
演出ですが、盛重型も松含型も逃げる筈の若松が上手の方へ移動して、追いかける筈の女が
逃げるように単独で下手幕内に走り込む、その後、直ぐ同舞台場面で若松が舞台を一巡りして
末吉寺の座主に助けを求めるという所作があり、筋書きの理解に苦しむ場面であります。
守良型は、ここが従来の演出と大きく異なり、この場面が見どころであります。
この組踊では干瀬節が3回歌われます。
若松が取り縋る女を振り払い逃げる場面で3回目に歌われる干瀬節は、現在は干瀬節の
下句を早めて立方の所作に合わせています。
それは組踊集や伊波普猷本に干瀬に居る鳥節と記されたのみで、昔実演されたいた上句
は干瀬節、下句が述懐節で歌うことが記録漏れのためであります。
昭和13年に与那原で公演された時は、安冨祖流大家の金武良仁先生の指導を求め
確認して仲泊兼蒲先生が干瀬述懐節を歌われたのであります。
狂気的に恋慕して取り縋る女を若松が振り払い逃げる場面では「振り捨てていかば
一道でもの」の不気味な悲壮感の漂う歌詞は述懐節でないと緊迫感が出ません。
この歌い方は盛重型も同じでしたが、戦後は変じております。
平成10年3月22日に与那原町芸能協会創立10周年記念にて行われた「執心鐘入」は
干瀬述懐節であり、そこが聞処であります。
平成10年3月22日記述 宮城嗣幸先生より
2010年03月28日
仲村渠節
この仲村渠について、池宮城喜輝師は人の姓名といわれ、この歌は伊江島に仲村渠マカテという美人が
いて、両親の監視が厳しく、外出して愛人に接することができずに、自分の寝所を愛人にしらせるために、
詠んだ歌だといわれました。
与那覇政牛氏もこの説をいわれました。
見里朝慶氏は琉歌の研究にこの説を支持されています。
かくも学者たちは伊江島の仲村渠家のマカテー説の支持者が多い中に、仲島遊郭のナカンダカリ出自の
説もあります。
仲村渠の呼び名は昔流にいってナカンダカリとナカンカリとの二つがあります。
近世になって字音どおりナカムラカリと読む人もいますが、歌の性質上ナカンカリと呼ぶのがよいでしょう。
昔の遊郭は辻、仲島、渡地と三島あって、渡地は話もあまり聞いておらないが、辻、仲島はその中に三区
画があって前をメーンダカリといい、真中をナカンダカリ、後の方はウークンダカリと呼んでいずれも村という
意味であります。
その仲島のナカンダカリの愛の葛藤を描いている歌だと父嗣長も石嶺朝佐老も大宜味朝隆氏も言われて
いました。
この古老たちの説に私も賛成です。
(中略)
「仲島の浦の冬の淋しさや 千鳥なく声に松の葉音」
こんも歌詞の下句の元歌は松の嵐でありました。
ある御殿にて野村先生とその門弟方が出船祝の演奏をやり、そのうちに仲村渠節を望まれて、一同で
合唱をし出したが、ふと気づくとこの歌の下句の終わりの部分が松の嵐になっている。
出船の祝いの座で嵐とは、これはとんでもないことをやっていることに気がつき一同ひやひやしながら
歌い進んだが、ここにくると野村先生が即座に嵐を葉音に変えて大声でおっかぶせなさったので、一同
やれやれとついていきながら安心したということです。
これ以後はアラシをフヮウトゥに変更したそうです。
(後記載省略)
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
仲村渠節 歌・三線/宮城竹茂 箏/吉田登美子 笛/大湾清史
2010年03月25日
野村流4団体にて秘伝仲風斉唱
「三絃と歌が織り成す悠久の美」で秘伝仲風(ハヤリ手仲風)が野村流の4団体で
斉唱を試みました!! 歴史的な日でした!! 野村の歌です!!
秘伝仲風 歌・三線/琉球古典音楽野村流松村統絃会 野村流古典音楽保存会
野村流音楽協会 野村流伝統音楽協会
2010年03月24日
伊野波節
本部町字伊野波より生れた歌です。
クビリとは、水の流れで土石を抉り取られたみたいに道をつけた細い小坂のことをいいます。
ニャフィンはもっと、遠さわは遠くということです。
楽しい逢瀬のあとに無蔵を家まで送って行く途中のくびり道小を過ぎるとそこで別れねばならない。
このくびり小道がもっと遠くであったらなあと、悲哀の情を歌ったのがこの伊野波節です。
私も登ってみました。
登りきると広々とした平野で遠くに部落が見えました。
そこには何の物陰もないから、歌のとおりにもっとくびり道小が続いたらと思うことが、よく分かりました。
この節は揚げも高く長く、低音も低く太く歌うので声の鍛錬には格好のものです。
沖縄タイムス社主催芸術新人部門の課題曲になっています。
(後記省略)
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
先日の連休に、芸能家の登竜門、「伊野波節」の発祥地、石くびりを散策しました!!
恋人同士なら、この“くびり道”もきつくないでしょうね。。。結構なくびり道です!!
伊野波節 歌・三線/照喜名朝福
2010年03月19日
述懐節
この節も本調子よりなったもので、感情が激しくなると本調子が二揚げになる
ものです。
手水の縁を例にあげます。
(山戸)闇の夜の人も寝静まて居もの、御門に出ぢめしやうれ思ひ語ら
(仲風)サアヤウ暮らさらん忍で来る 御門に出ぢみしようれ思ひ語ら
(玉津)闇に唯一人忍でめる心かにて知る我身のお待ちぐりしや
(山戸)やあ思無蔵よ 面影と匂立ち増さい増さて
暮らさらんあてどとめて来ちゃる
(玉津)やあ思里よくまや人繁さ内に入りみしよれ、あわれこの間の思ひ語ら
(述懐)結で置く契りこの世までともな かわるなよ互いにあの世までも
仲風は忍ぶ場面を表現し、述懐は逢見て後の別れを表現し、述懐は逢見て
後の別れを表現しています。
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
述懐節 歌・三線/宮城嗣幸 箏/吉田登美子 笛/仲田治巳
2010年03月18日
固(カタミ)節
おめでたい席にもってこいの歌です。エイサーにもよく使われています。
節名の「固(かたみ)節」は「固み節」とも「形見節」とも書かれることがあるようです。
歌詞に登場するのは、男女の仲についてです。
「琉球芸能事典」(那覇出版社)の中で、「かたみ節」も、「琉球舞踊(創作舞踊)」と
「沖縄の民謡」と「八重山の民謡」の三カ所にそれぞれ書かれています。
2010年03月17日
稽古日
今月に入りまして、高平良万歳の稽古を行っておりますが・・・
さらに定期公演同日に新に演目が追加されました。。。 若衆揚口説!!
忙しくなりました!! 頑張っていきましょう-!!
高平良の万歳(道行口説・万才かふす・うふんしゃり・せんする節/歌詞)


松村統絃会工工四(道行口説)



松村統絃会工工四(万才かふす節・うふんしゃり・せんする節)




稽古の様子。。。
2010年03月16日
若衆揚口説
した創作舞踊です。
古典舞踊に若衆踊りが少ないので、若衆芸のもつ意義を多くの人に知らせる
目的で創作した一演目です。
全体は三曲構成で、第一曲は揚口説で四歌詞を入れ、第二曲はかぎやで風
で下句のみ取り入れ、第三曲は湊くり節で二歌詞で陣笠を手にもっての勢いある
踊りを見せます。
着付けは、緋の振袖衣裳をあずまからげ(チブイ)にして動きやすくし、緋の
脚絆、緋紗綾足袋をはくという、視覚に印象づけるくふうがなされています。
陣笠をかぶり、肩には紅白の紐で固定された籠を担ぎます。
舞台の使い方は、従来の様式を踏んでいますが、曲の構成や持ち物の取扱い
方は絶妙で、全体は変化に富む構成法になっています。
2010年03月13日
本散山節
この歌詞は何事でも油断してはいけないといういましめです。
学問するにしても明日やるといえば「年や馬の走り」といって、すぐに老人に
なってしまう。
昔のタンメーターは、この歌を口ずさんで家族の油断をいましめたもので、一家の
主婦は夕飯のあとすぐ糸巻きをして、一日に二本クダグーを巻けば一家の者に
「着物欲しややしみらん」といって少しの油断もなく糸巻きをしたものです。
梅の葉は一つ枝にありながら花が咲くころは落葉して匂いもかぐことはありません。
身一つでもこのように別々になってしまいます。
今あるもので、いつまでも、あなたと一緒のものは何もありません。
今出来るうちに油断しないで、あとのために備えておきましょう。
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
本散山節 歌・三線/宮城嗣幸
2010年03月12日
花風

この節は本花風から変じたもので、主に辻遊郭あたりで歌われていたものが
音楽家の手によって、首里でも用いられるようになり、工工四にも載せられる
ようになりました。
ミィグスクとは、那覇港入口を守るための砲台で、向いの屋良座の砲台との
二門にて港湾に侵入しようとする敵艦を撃破する役目がありました。


時代が下って、世の中も平和になると、この砲台も入港船の見張所をなり、
ノロシをあげて首里城への通報の役目となり、また、沖縄県になってからは、
このノロシの通報もいらなくなって、出船の見送り場所としての用だけになり
ました。
旧藩時代の船送りも家族の者は通堂までやっていましたが、遊女などの見送
りは通堂まであからさまにはできず、専らミィグシクに先まわりして、船影の
通過するのを見送るだけでした。
それで名残り惜しさで一目見ゆると歌うのです。
この意味も知らずに、ある船持の家では、一目見ゆるは、沈んでしまうこと
だから不嘉例である、ここを「はるが美さ」に変えてくれと注文されたことが
ありました。
人の嫌いな言葉を強いて歌うこともあるまいと、私は「よしよし」と簡単に
変えて歌いましたが、踊りは死んでしまいました。
(中略)
花風の踊りは1897年(明治30年)、玉城盛重が創作しました。
チラシは下げ出し述懐です。
「朝夕さもおそば 拝みなれそめて 里や旅しめて いきやす待ちゆが」
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
花風 歌・三線/宮城嗣幸
2010年03月10日
稽古日
道行口説
1、親のかたきを討たんてやヰ 万歳姿にうちやつれ
棒と杖とに太刀仕込んで
2、編笠深く顔隠ち 忍び忍びに立ち出てて
村々里々越え来れば
3、平良や忍ぶ敵の門 兄弟尻目に見過ごして
うしろの道に廻り来て
4、行く末吉の御神に 祈る心やわが敵に
急ぎ引合せたぼうれてやり
5、登て社壇に願立てて真南に向ひて眺むれば
四方の景色の面白や
6、計伊と慶良間の渡中には 海士の釣舟浮きつれて
沖のかもめと見まがふや それから下りくだり来て(エイ)
御寺御門に立ち寄やい 休む姿や与所知らぬ
高平良御鎖は、大謝名の比屋に競馬で負けたことを恨んで闇討ちにしました。
大謝名の息子二人は仇討を企てて、その機会を伺っていました。
ある日、高平良は一家をひきつれて小湾浜に浜下りをしました。
大謝名の息子二人は万歳姿に変装して御鎖に近づき、親の仇を討ち果たした
のでした。
組踊中にある踊りの部分だけを編成したのが、この高平良の万歳です。
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
稽古の様子
5月の公演までには仕上げましょう!!
2010年03月09日
宮城の真壁と宮城嗣長
「友寄開鐘」と「宮城の真壁」を観てきました!!
「友寄開鐘」
「宮城の真壁」
歴史を感じる三線でした!! 那覇市歴史博物館で4月7日まで展示されます。
展示されている三線の隣には、宮城嗣長師の師でもあり、義父でもある松村真信師が編著に
携わった「湛水流工工四」と「欽定工工四」上・中・下巻、拾遺集も展示されていてました。
師たちの功績を感じました。。。
「宮城の真壁」の制作者でもあり、当会の創始者でもある宮城嗣長師には次のような逸話が
語り継がれています。
「宮城翁と小浜節裁判」
昔は随分暢気なもので隙さえあれば賭事などをして楽しんだものである。
或る日、二人の馬車挽が「小浜節は二揚である、否三下げだ!!」と互いにゆずらず、
遂に酒一升を賭けて、当時、与那原で歌の師匠をしていた宮城翁に、その何れが正しいかの
判断を仰いだ。
翁は・・・。
「小浜節は工工四には本調子になっている。本調子は音樂の基本になる調子で、この調子
から上げる調子を「揚げ」といい、下げる調子を「下げ」といはれている。
男絃は一の絃で、この絃を揚げると「一揚」といい、俗に唐ツインダミというている。
中絃は二の絃で、この絃を上げると「二揚」になる。又、女絃を三の絃というて、これを
下げると「三下」になる。
お前達の三下は絃が三本下るから三下だ!!
又、男絃と中絃の二本揚げるから二揚だとかいうているが、学理上は間違っている。
尚、小浜節に限らず本調子の歌で情歌は二揚調でも歌える。
この時は本調子の男絃は二揚の中絃に相当し、中絃は女絃に必適する。
この道理でゆけば本調子の小浜節を二揚で弾くのも間違いではない。
だが工工四には本調子となっているので二揚だと主張した人は間違いでもないが当たっても
いないのだ。
又、三下を主張した人も学理上の本調子とお前達のいう三下とは同じであるが学理上の三下
をもあることだから実際上は当たっているようでも、学理上は妥当ではない。
だからお前達の賭けは当たってもいれば、二人とも間違ってもいるから同番だ。」
と判決を下し、尚、三味線をとって懇切に調子について実際に指導された。
翁は更に、
「賭事は酒に走り、喧嘩口論の原因になるから以後はあまりやらぬようにせよ」と懇々と
論され、処世上の最高の学問である音楽の道に入るよう奨めて帰した。
宮城嗣長(1861年~1944年、昭和19年)
国風絲楽三線譜(欽定工工四)編纂者松村真信の高弟、松村直伝の理論一定(イチダミシ)
を現代に伝えている。
当会、家元の宮城嗣周師が父嗣長師のことを次のように伝えています。
「何せ、父は文久元年(1861年)酉歳生まれの古い時代の人で、その友人方も共に、
その頃の方々です。
琉球最後の国王尚泰の御冠船は父の6歳の頃であったといいます。
16歳の時、科挙を通って宜野湾御殿に出仕をしていた時に廃藩にあっています。
御城内は大騒動となり、大和兵隊に追い散らされて、国王警護の武士たちも逃げ失せていなく
なったので、父たち青年達が宜野湾王子の御命令で登城して、王の側近の警護を固め、中城御殿
へお移し申し上げたと言います。
首里城が大和兵隊に奪い取られた日の歴史の一こまを担いだ人達の話は、私には遠い国の昔々
のその昔の話で、御座の片隅で息をひそめて聞いたものです。
そのようなお話を恐怖を感じながら聞いたので、昨日聞いたようにはっきりと覚えています。
目を閉じるとその時の老人たちのお姿が瞼に浮かびます。
私の父は王朝時代の人なので名前が三つあります。
童名は松金といい、名乗は宮城嗣長、唐名は孫文傳であります。
お友達の皆そのようでありました。
そんな古い人達の古い話を毎日ほども聞いて、時には、ご老人達は同じ話を、また新しく話し
出すこともあって、語られた話はよく覚えています。」
「耳学問」(嗣周むかしばなし)
2010年03月05日
孝行の巻
第四回発表会、組踊「孝行の巻」を鑑賞してきました!!

第二期組踊研修生の日頃の努力が伺える、素晴らしい舞台でした!!

「孝行の巻」
組踊「孝行の巻」は玉城朝薫の作品の一つとして知られています。
組踊が上映されたのは1719年で、この年、尚敬王冊封の際、冊封使を
歓迎する重陽の宴で「二童敵討」、「執心鐘入」が上映された記録が残され
ています。
その後に開かれた餞別の宴、拝辞の宴でも組踊が上映されたと察する記述
が残されており、「孝行の巻」も同じ年に初演されたといわれています。
玉城朝薫の家譜や琉球の正史「球陽」の記述によると、朝薫は、琉球の伝説
や物語である「本国往古の故事」を基に組踊を創ったとあり、「孝行の巻」
も沖縄本島中南部の嘉手納に伝わる「屋良むるち」伝説を素材としています。
「屋良むるち」伝説
嘉手納町屋良の比謝川上流にある漏池に伝わる伝説で、干ばつが続いて
人々が困っていると、漏池の神である大蛇に若い娘を生贄として捧げれば
大蛇が死んで雨が降るという言い伝えがありました。
そこで王府が生贄となる者の家族の面倒を一生みる約束で娘を募った
ところ、ある貧しい家の娘が申し出ました。
生贄として娘が池に入ると、突然、雨になり、大蛇は死に、娘も助かり
ました。
それ以降、娘は孝行者として讃えられたという言い伝えです。
このような説話が嘉手納町や読谷村で伝承されています。
屋良むるち入口



本当に今日の舞台は、いい舞台でした!! 次回も楽しみです!!
2010年03月04日
千鳥とシンターゲーリー遊び
ふるさとを遠く離れ、ふるさととそこに残した愛しい人を偲ぶ心情を、浜辺で友を呼びながら
悲しそうに鳴いている千鳥に託して踊で表現しています。
編曲/端慶覧尚子 作舞/新崎恵子 踊り/太圭流藤の会
歌・三線/琉球古典音楽野村流松村統絃会 揚箏/伊波美智代 箏/赤嶺和子
笛/仲田治巳 胡弓/又吉真也 太鼓/比嘉聰
「シンターゲーリー遊び」(宮城嗣幸顕彰公演より)
シンターとは頭や腰を曲げて前屈みになる事で、ゲーリーとは前にひっくり返ることで
つまり 転げ回っる事です。
この舞踊では いくらひっくり返っても転げ回って遊びたい気持ちを賑やかな曲に
コミカルな振付で表現しています。
シンターとは津堅島の方言で、私たちはチンターと言っていました。
共に琉球舞踊太圭会藤の会会主、新崎恵子先生の作品です。
2010年03月03日
稽古日
5月に行われます沖縄新進芸能家協会主催の定期公演に向けての演目の稽古です!!
演目は、高平良萬歳!! 難しいです。。。 頑張りましょ-!!
でっ・・・明日は3月4日!!三線の日で、県内では催し物が多数多数ありますが
明日は、こちらにお邪魔しようと思っています!!
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県内の若手!!第二期組踊研修生による4回目の公演!!
将来を担う実演家の舞台が楽しみです!!
詳細はこちら→→→ (クリック)国立劇場おきなわHP
2010年02月28日
宮城嗣周創作3曲
「天川の池に遊ぶおしどりの 思い羽の契りよそや知らぬ」
歌・三線/琉球古典音楽野村流松村統絃会 野村流古典音楽保存会南部支部
箏/琉球箏曲保存会 笛/仲田治巳 胡弓/桃原栄仁 太鼓/宮城久子 久保田京子
いりく節 作曲 宮城嗣周
「面や縮緬のイリクなて居ても 肝や今十七八で腕かけら
歳寄たんともてあざむくなわらべ 寒苦へる梅ど 匂や増しゅる」
(嗣周歌まくら、いりく節前記略)
この一番の歌詞は、私の家で白扇に書いてくださった詞で、これで作曲してみよと
おおせになりました。
「名城政成先生、お歌は字余りですが余った分は削ってもよいですか」と伺うと
「生れるべくして生れたからは長短に応じて節をつけるのが作曲というものだ。
そのままの詞で作れ」と命ずるが如く言われて作曲したのが、この曲です。
いりくとは海底をはっているナマコのことです。
沖縄ではナマコを燻製にして老人や病後の健康食としています。
(中略)
二番の歌詞は、渡嘉敷ペークの歌です。
渡嘉敷親雲上は学者であり、その奇人振りは今に語り草である。
ペークとは唐船の会計のことで、金銭も沢山儲かったが仲島遊郭に入りびたって
すっからかんになってしまい、あとは北谷に島下りしていった。
私が二十四、五歳頃までは、その子孫とうのが住んでいました。
その当主と友達になり同家を訪問したこともあります。
昔は唐一倍といって、唐に行った人たちは皆儲かって金満家になっていましたが
ペーク一人は、せっかく儲かった金もおしげもなく使いはたして、気がついて見ると
残っているのは一文銭三枚だけだったそうです。
それも仲島小堀になげすてて手を、パンパンとチリを払って、「褌一本引きまわち、
んな手空手に北谷おり」といって、北谷の前の田圃の中の屋敷を作り浮世ばなれの
暮らしをされたそうです。
それを若者たちが笑ったので、「お前達のような若造になにが解るか」と言って、
寒苦を散々経て来た心境を歌にして教えたのが、この二番の歌なのです。
ちるれん小 作曲 宮城嗣周
「今日のよかる日や風車の御祝 子孫揃て踊り遊ば
百二十歳なても肝や今わらべ 風車とつれて踊り遊ば」
松村統絃会発刊、野村工工四上巻24頁にチルレン節という古歌が載っていますが
節名は、カジマヤーの勢いよくめぐることを方言でチンチルミングワーということから、
はやし言葉にチルレンチルレンサヤチルレンと言われたのです。
これを様々に誤解して時代を経ると、もっと不明になりそうですので、今一つ々はやし
の節を作っておこうと思い、古歌のチルレンが長命願いであるから、それを受けて、チルレン小
としたのです。
宮城嗣周著「嗣周歌まくら」より
2010年02月25日
第12回芸能チャリティー大会リハーサル
リハーサルに、お邪魔しました!!
当会からは、師範の宮城竹茂先生と赤嶺武志先生、、、
それと若手ナンバーワンのユウキ-が地謡をつとめます!!
全部で十数演目!! 3人での地謡は、かなりハードです!!
第12回芸能チャリティー大会は、3月7日(日)に浦添てだこホールにて行われます。。。
広告、プログラムは、まだ作成中らしいですので詳しくは、下記をクリック!!
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クリック → 浦添てだこホール催事一覧表 ← クリック
2010年02月24日
波平大主道行口説
辺土名親雲上作といわれ、1800年の尚温王冊封式典余興芸能として上演される予定に
なっていました。
組踊「忠臣身替の巻」(一名、八重瀬)中の忠臣の一人、波平大主が人ずてに同士の平安
名大主が主君玉村の按司の若按司を敵方の八重瀬の按司に引き渡したと聞いて、そのこと
が、真実か否かを確かめるために那覇南部から勝連の南風原まで、忍びで出かける道行の
部分を特出して、二才芸としてまとめ上げた迫力芸であります。
波平大主道行口説(宮城嗣幸顕彰公演より)
踊り/瀬底正憲 歌・三線/山城柳太郎 赤嶺登喜夫 宮城健 金城善徳
箏/上地尚子 笛/仲村昌成 胡弓/又吉真也 太鼓/喜舎場盛勝
1、さても移れば変わり行く 人の心ぞ浅ましや いざや最後の出て立ちに
2、有りし様が変え編笠に 深く面を隠してぞ 行けば程なく我謝安室
3、浜に千鳥の友呼ぶや 聞くにつけても哀れなり のぼりのぼりて中城
4、しばしやすらひ真南見れば 故郷の名残も有明の 月に思ひぞ勝るなり
5、東表を見渡せば 波にぬれ路の津堅島 降りて渡口の村過ぎて
6、和仁屋間潮路にわけ入れば 急ぎ歩でも歩まらぬ エイ
今ど勝連南風原に 急ぎ急いで忍で来る。
2010年02月23日
本日の沖縄タイムス!!
当会からも、赤嶺登喜夫師範が 大賞 を受賞されました!!
贈呈式・祝賀会は今月28日、午後2時からパシフィックホテルにて行われます。
仲風 歌・三線/赤嶺登喜夫 箏/赤嶺敏子

