2009年12月31日
松村真信
松村真信翁は野村親雲上の高弟で頭脳明晰、和漢の学に秀で特に数理に長じていた。
尚泰侯の御側仕(侍従職―歌の師匠)である野村親雲上が上意により樂譜制定を
命じられた時、松村翁の協力を得て、日夜刻苦精励して遂に新しい様式の欽定工工四を完成した。
松村翁の脈膊が標準の理想的脈であったということは、当時の侍医渡嘉敷通睦翁が折紙
をつけた程で、従って工工四に記載された拍子の脈数も松村翁の脈を基準として算定された
とのことである。
尚、晩年、野村親雲上の推挙により尚泰侯の歌の師匠を拜命して東京えも随行したことがあった。
松村翁には一男三女がいたが、男は夭逝し、長女は前川殿内に嫁し、次女は与那原の宮城嗣長
の妻となり、三女は与那覇家に嫁しているが、この三人の娘達の結婚費用等の精算には算盤を使
わずに軽く眼を閉じて暗算で算出し、然も算盤で入れるよりも早かったとの事である。
明日、1月1日は松村真信生誕175年目にあたります。
松村真信1835~1896(尚育元・1.1~明治29.12.19)
(松村統絃会家元宮城嗣周は孫、同会名誉会長宮城嗣幸も松村師の孫にあたります。)
首里金城町生まれ。 1872年には王命を受けて『湛水流工工四』をまとめる。
尚泰侯の御側仕(侍従職―歌の師匠)である野村親雲上が上意により樂譜制定を
命じられた時、松村翁の協力を得て、日夜刻苦精励して遂に新しい様式の欽定工工四を完成した。
松村翁の脈膊が標準の理想的脈であったということは、当時の侍医渡嘉敷通睦翁が折紙
をつけた程で、従って工工四に記載された拍子の脈数も松村翁の脈を基準として算定された
とのことである。
尚、晩年、野村親雲上の推挙により尚泰侯の歌の師匠を拜命して東京えも随行したことがあった。
松村翁には一男三女がいたが、男は夭逝し、長女は前川殿内に嫁し、次女は与那原の宮城嗣長
の妻となり、三女は与那覇家に嫁しているが、この三人の娘達の結婚費用等の精算には算盤を使
わずに軽く眼を閉じて暗算で算出し、然も算盤で入れるよりも早かったとの事である。
明日、1月1日は松村真信生誕175年目にあたります。
松村真信1835~1896(尚育元・1.1~明治29.12.19)
(松村統絃会家元宮城嗣周は孫、同会名誉会長宮城嗣幸も松村師の孫にあたります。)
首里金城町生まれ。 1872年には王命を受けて『湛水流工工四』をまとめる。
Posted by 華氏 at 10:29│Comments(0)
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